舞台を初めて演出するのを好機と捉えて、前回までの記事で「演技とは何か」ということを<ラポール>という視点から考え続けてきた。自分なりに様々な発見があり、個人的に極めて大切な時間だったように思っている。しかし、演出家として、まらは監督しては、半分は満足しつつ、もう半分は課題を残してきたような心持ちになっていた。考えるべき重要なことがもう1つある。それは言わずもがな、「カメラ」の問題である。もっと広義な言い方をすれば「観客」に「何」を、どんな「イメージ」を見せるかということである。
監督の仕事は、いわばココに結実される。演技がいかに素晴らしかろうとも、イメージがそれを適切に反映しなければ意味が無い。そもそもカメラがその瞬間を写すことができなければ、さらに意味が無い。または演技がいかにダサかろうとも、最高のイメージを提出すれば、それで良しなのである。
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この話は、実は極めて難しく、ややこしい問題を含んでいる。一つには、「カメラ」と「イメージ」という二つの用語に纏わる問題。そして、もう一つ大きな問題は、「本物」と「偽物」、あるいは「虚構」と「真実」という問題である。
解説は後回しにして、まずは「カメラ」というところから論を進めてみようと思う。
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カメラの話になれば、まずリュミエール兄弟をこそ挙げるべきだろう。リュミエール兄弟の最初の映画のショットの中に、カメラについての重要なポイントが提出されている。1つは、<カメラをどこに置くのか>ということ。もう1つは、<カメラをいつからいつまで回すか>=<いつからいつまで記録するか>ということである。
そして黒沢清監督は、これらをこそ監督の仕事であると言う。作品作りの現場の視点では、確かにカメラこそが中心になり、運動を切り取り、空間を切り取り、時間を切り取り、ポストプロダクションに道を指し示す。ポストプロダクションは、カメラによって強い制限を受け、カメラによって多くのことが決定される(ハリウッド式のマルチの現場ではそうではないかもしれないが)。そして黒沢監督は、一つ目の問いに対して「何かが起こりそうな場所にカメラを置け」と答える。その答えからして二つ目の問いへのアンサーは、アプリオリに与えられる。「何かが起こりはじめ、何かが起こり終えるまで」を記録するのであろう。
当たり前といえば当たり前のことなのだが。実に示唆に富む答えである。僕がこの記事について考えを巡らした発端はここにある。
何かが起こりそうな場所にカメラを置け――。
では、「何かが起こりそうな」とは一体何であろうか。この「何かが起こっている」というの、一体どこのことを言っているのか、と。
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一つの考え方として、物語を基準に考える方法がある。つまり、物語が進んでいる場所に向かって、カメラを向けるということである。これは通常、採用されやすい基準である。演出家は台本と睨めっこしながら台割、すなわちカット割りを書き込む(僕はこの方法を良いと思わない。なぜなら、映像は字でないからである。映像を字で考えることはできず、字を映像で考えることはできない、と思うからである。)。しかし、この物語を基準にする考え方にはどこか誤謬があるように僕には思われる。
たとえば、よくあるハリウッドの物語映画を例にとるとして、Aという人とBという人との会話がカットバックの応酬で映画が組織されるとき、それは物語を基準にしていると言えるだろうか。物語を基準にする、というのであれば、AとBの2ショットを映してもよいということになる。またはAとBの話し手側のショットを使わず、聞き手側のショットだけで映画を構成するという方法もある。
つまり、この例が示しているのは、「物語を基準にしたカット割り」などというものは存在しないということだ。それは迷信である。物語というのは、思い返せば、<ある一連の映像の連なり>の前提なのではなく、<ある一連の映像の連なり>の結果、なのではないだろうか。
そうだとすれば、監督は実際、「物語が起こりそうな場所」にカメラを向けているのではなく、全く別の基準で、カメラについての決定を下しているということになる。
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では実際、カメラは何を記録しているのであろうか。先ほどの例に示したAとBの会話の際、カメラが記録しているのは紛れもなくAとBというそれぞれの人間である。そしてこれが劇映画である場合、与えられた台詞を言い、演技をしている人間AとBである。
この映像が面白くなるとしたら、AとBの演技が、真に迫ったものであるとすれば(撮影方法がどうであれ)、面白くなるであろうことは容易に想像がつく。つまり、AとBが演じる劇中人物同士が、ラポールし、虚構を生きてるのにも関わらず、それが真実であるかのように、まるで事実として生起しているものであるかのようになったときに、面白いのである。
そういえば、リュミエール兄弟の「汽車の到着」は何が面白かったのであろうか。映画をみた観客は、汽車が本当にやってくると思って逃げ出したという。つまり。「虚構であるにも関わらず、真実であった」から、または「真実であるにも関わらず、虚構であった」から、面白かったのである。
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さて、ここで角度を変えて、この議論を進めてみたい。それは、「イメージ」という視点からである。つまり、現場のカメラと被写体の関係からではなく、「イメージ」と観客、というベクトルを導入したいのだ。
観客は何を見ているのか。それは映画である。映画とはなんだろうか。それは、一連のモンタージュされた映像集、すなわちイメージの束である。イメージの束とは、なにか。それは物語である……(?)。
果たしてそれは本当だろうか。映画の作り手は、物語を見せるために映画を作るのだろうか?映画とは物語の伝達手段なのだろうか?確かに、ある意味ではそうである。しかし、そうであるならば何も大金を使って映画を作ることはない。映画の作り手の多くがそう答えるように、映画は、すなわりイメージの束であるけれども、それはすなわち物語ではない。映画には物語とは別の存在を含有しており、それを見せるためにも、あるのだ。
ここで、映画を人間に見立てることもできよう。「映画」という名の人間には物語がある。その物語は、時には皮膚のように表面を覆い、手足のように動かされ、時にはその人の意識全体であることもある。しかし、その人間の内臓には別のものが潜んでいる、または無意識には、秘められた記憶には別のものが潜んでいる、のである。そしてそのことも含めて、この人間は、「映画」という名の人間、なのである。
作り手の望むことは、観客がその「映画」の内奥まで、見ること、だ。「映画」をできる限り完全な形で味わってもらうため、そしてその味わった結果、またはその過程において、観客にも何らかの変容の萌芽が生まれること期待するからだ。すなわち、観客と「映画」が<ラポール>すること(互いに開き合うこと)を望んでいるのだ。
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この<ラポール>という視点から、「イメージ」を仔細に眺めてみよう。その時、当然引いてくるべきは、ジル・ドゥルーズ「シネマ1-運動イメージ」「シネマ2-時間イメージ」であろう。ドゥルーズの運動イメージと時間イメージの考えは、先ほどの物語=皮膚・手足=意識、と、物語以外のもの=内臓=無意識についての、より決定的な思考を与えてくれるからだ。(つづく)
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