先日、<演技とはラポールのことではないか>という文章を書いて以来、初めての舞台『エデン』のオーディションをしながら、繰り返しそのことを考えている。
幾つかの作品をこれまで演出していく中で、類まれなお芝居に出会うことが何度かあった。そして類まれな役者(時折それは役者を職業とする方ではなかったけれども)に出会うことも度々あった。そして思い返してみると、彼らは一様に強烈なラポールを形成していたと言わざるを得ないと思い当たった。(そして撮影時、僕たちスタッフはそれを破壊しなかった、もしくはそれを阻害する行動をしていたとしても、ついにそれを破壊しえなかった、と。)
僕自身は、「僕自身が演技を教える」ということについては懐疑的である。
そもそも僕にそんな素質があるとはどうしても思えない。海外の監督のようにアカデミックな場所で演技を学んだ経験があるわけでもない。僕は「ある作品のための演出家であり、いつも演出家なわけではない」のだ。つまりは、作品のために演出をすることはできるし、その作品に向かって役者の底に隠れている何かを表出させるように促すことはできるが、なんの作品もなしに役者を一から育て上げる教師の資質は僕自身には(おそらく)ない、ということだ。(そのためにアクティングトレーナーの存在が必要だと感じるが、それはまた別の話。)
しかし、そんな僕でも何度かワークショップの場で役者と向き合ったことがある。その多くは長年の友人であり尊敬する役者である上山学と一緒に行うものであったが、スタニスラフスキーやリー・ストラスバーグや、とりわけマイケル・チェーホフのメソッドをもとにカリキュラムを入念に組んで、行うものであった。その多くは基礎的なレッスンで、間違ったことは行っていない自負はある。それぞれのワークショップに当たって毎回入念に考え抜き、準備に実に多くの時間を費やした。実際にこのワークショップによって、素晴らしい素質の萌芽を見せる役者さんたちも確かにいた。彼らのアクティングが向上されていったことは確かだと、僕自身は思っている。
しかし、たとえばオーディションで選ばれるように彼らが変貌していくかどうか、ということについては、保証できなかった。それが正直なところだ。なぜなら、演技のテクニックや、演技という道にまつわる何か大切であろうものの一つを教えてはいるけれども、最も重要なことについて、触れていないだろうからである。
個人的な話でいえば、映画やドラマの(舞台はおそらく違う)オーディションの際に、僕自身は、出会う役者さん一人一人のお芝居を見ることを必要としない。1対1でゆっくりと簡単な会話をすることができればそれでいい。オーディションの体裁として便利なので、お芝居をしてもらうこともあるが、根本的にはそれは必要ない。それは、過去の作品で演技の技術の多くを垣間見ることができるのもあるし(媒体を介する以上、もちろんすべてではない)、なによりも演技の技術が高い役者を探しているのではなく、同様に演技の技術が映像において最重要であると思ってもいないから、であろう。
つまりは、ワークショップで度々行うように、シーンワークばかりを繰り返していても、何も発見できないのではないかと思う。(ここにも例外があることは認めなければならない。演技を通して、役者のことが丸ワカリになるということはありうることだから。)
では、オーディションの決め手、つまり演出家からして役者として役を預ける判断基準の決め手、はなにかというと、「役者が役と近似しているかどうかである」と答えることが僕にはある。たしかにその通りだと思う。役者の中に、役と似ている「何かがある」ということは決定的な要因である。しかし、それはどうしてわかったのだろうか。そしてどうして、その役者だけになにか役と近似するものがあり、それ以外の人の誰にもそんなものはなかった、と言えるのだろうか。
思えば、「役者と役との近似」の問題は、それはオーディションの最終結論の前の、最終的な納得材料に過ぎないと思われる部分もないわけではない(もちろんそれらがあまりにもかけ離れている場合は別の話)。それに、オーディションで出会った役者さんがあまりにも魅力的な場合、役をその役者さんに当て書きしたとしても、その役者さんと仕事をしたいと思うときも度々ある。
では、問題は近似の問題ではなく、「役者が魅力的かどうか」なのであろうか。
仮にそうであるとして、それでは「魅力的」とは一体何なんだろうか? そしてその魅力というのは、ある特定の人間には備わり、別の人間には備わっていないものなのだろうか?(それは違う、と僕は思う)そしてその「魅力」と言われるものはどのような尺度で測られるものなのだろうか?
このような考えを巡らすにつけ、演技というものに対する全く別個の見方が必要なのではないかという考えが生まれてきた。
それが僕にとっては、僕の過去の経験をヒントに、<演技とはラポールのことではないか>という仮説である。その方法論について確立しているものはまだまだ何もないけれど、今回の初舞台の演出において、<ラポール>とは、僕の中の裏テーマであることは間違いない。
つまり、役者は<ラポール>をしている時に最も魅力的であり、裏を返せば、<ラポール>をしさえすれば役者は魅力的なのではないか、ということ。もっといえば一般的に言って、人が魅力的であり、創造的であり、究極的にその人自身でもあり、同時に普遍的にもなりうる、ということは、ひとえに<ラポール>の問題だということができるのではないか、ということである。
先の文章で示したように、一口に<ラポール>とは言っても幾つかのフェーズ(対象)がある。元々の心理学用語としての<ラポール>とは、少々拡大解釈して使ってもいる。
たとえばセックスのことを想起しよう。完全に開き合い、完全に<ラポール>し合う二人の状態は、まさに官能的である。たとえば格闘技のことを想起しよう。完全に<ラポール>し、打ち合い、技を掛け合う二人は、官能的と呼んでもいいかもしれない。身体と意識の両面において、完全に自分自身を統合できたような瞬間(人生の中で時折訪れるあの瞬間)、「私」は官能的かもしれない。ある人間とある人間が完全に自由でありながら完全に相手のために存在するという信頼関係のある瞬間、それは官能的ではないだろうか。
<ラポール>とは即ち、対象から官能(感応)される者になり、同時に対象を官能(感応)させることだ。結果的にその官能(感応)の場は、感染力を持つ。<ラポール>して為された芝居は胸を打ち、<ラポール>して為された作品は心に響く。おそらく<ラポール>しながら為されたオーディションはそれに相応しい結果を生むであろう。
恐らく、僕たち(役者たちだけではない)に必要なのは<ラポール>することであり、常に「官能(感応)する心体」になることだ。そしてそのためのプロセスだ。そして<ラポール>は結果であると同時に、常にプロセスなのだ。なぜならそれはいとも簡単に破壊されやすく、一度生成されても、それが消え去る前に常に生成され続けなければならない。できることは、<ラポール>を阻害する行為(または<ラポール>が第一義であるという信念を忘れさせてしまうような別の信条を持ち出すこと)を入念に取り除くことであり、そしてあらゆる信頼関係がそうであるように、急がないことだ。
先日、ドストエフスキーの「白痴」を読んでいたら、含蓄に富む言葉に出会った。主人公のムイシュキン公爵の第四幕での台詞である。「一度に何もかも理解することはできませんし、またいきなり完全なものからはじめるわけにもいきませんからね!完全なものに到達するためには、まず多くのものを理解しないということが必要なのです!あまり早く理解しすぎると、ひょっとして間違った理解をしないともかぎりませんからね。」
最近思うことは、映画も、そして恐らくあらゆる作品づくりも(そしてたぶん、人生すらも)、どのようなプロセスを踏むかということが結果に如実に表れると感じている。
紋切り型のプロセスを踏めば、その範疇でどれだけ力を尽くしても、完成したモノは紋切り型を出ない。しかし、与えられたプロセスを疑い、本当に大事なものを獲得するために、狭い道を行こうとするなら、より遠くまで到達できる。
舞台の稽古は、催眠のワークショップからはじめようと思う。
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