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  • Jumpei Matsumoto

<今−ここ>とラポール

更新日:6月1日

先日、ゲシュタルト療法について、その創始者であるF・S・パールズが記した著作を読了した。それが、現在考えている<ラポール>を基にした演技の方法論に、再び新しい光を当てくれたと感じる。

本当にもはやメモ状態になっているブログだが、暫くは仕方ない、ここに記しておくことにする。


ゲシュタルトとはすなわち、「統合された全体」という意味である。先日の記事と偶然にも一致しているが、パールズも、フロイトの理論を批判的に発展させて、心身一元論の立場をとる。その上で、彼のセラピーは、過去の出来事や記憶、そして過去と現在に対する因果論的な考え方、または夢の解釈といった方法を退ける。パールズが重視するのは、徹底的に<今−ここ>であり、同時にその時の<気づき>である。

彼は、「人間が<今−ここ>に生きるのは困難であり、今を捕まえようとした瞬間に、それは手のひらをすり抜けていく」と述べる。その上で、しかし人は<今−ここ>に生きた時に、統合された人格を生きることができると主張する。


では、どのようにして<今−ここ>を生きるのか。

彼がクライアントにいくつかの質問を投げかけることによってクライアントを導こうとする。その質問は常に、「あなたは今、何を気付いているか」という類のもよである。そしてWhyという形式では決して尋ねず(「それは今から目を逸らさせる」とパールズは言う)、Howという形式を用いる。パールズはこの<気づき>こそが、<今−ここ>において人格を統合されたものにすると語る。

これは演技理論に多少とも触れている僕にとってはとても面白いものだった。なぜなら、演技理論で用いる多くの演出やテクニックは、この「あなたは今、何を気付いているか」という言葉に言い直すことができると感じたからだ。実際、パールズはこの質問の言い換えとして、「あなたは今、何をしたいか」「あなたは今、何を避けようとしているか」「あなた今、何をしているか」などの言葉に変換しているが、これはまさに監督が役者を演出する際にかける言葉であり、役者が役を演じるときに用いる「目的」「アクション」などのテクニックと同じなのである。そうだとすれば、パールズが人間一般に対して主張するのと同様に、役者も役を生きるに当たって、この<気づき>において<今−ここ>の感覚を活き活きと取り戻すことができているのではないか、と考えうるのである。

ただし、注意が必要なことがある。役とは事前に十分に考察・研究されるものであり、ゲシュタルト療法によってクライアントが経験するように、日常で生きる人間が自分の奥底に眠る自己の潜在意識と、たった今、出会うわけではない。役者についていうとすれば、<気づき>とは「考察・研究したことのリマインド」と言ったほうがいいかもしれない。そしてこう言ってもよければ、僕は「集中」と「リラックス」と言い換えたい。

つまり、役者が役を生きるときに、<今−ここ>を、統合した人格として、活き活きと生きる鍵は、「集中」とそれに伴う「リラックス」にあるのではないか、ということだ。そしてこうも言い換えてよければ「自己(心身)の<ラポール>」とも呼んでみたい。


     *


ここに来て、<演技とは、ラポールのことではないか>という命題は、新しい地平を臨みはじめるように感じる。

以前にまとめた「ラポールについて」という記事に則して、まとめ直すと以下のようになる。


1. 自己(心身)の<ラポール>


役者が、統合された人格として<今−ここ>を生きるために必要な<ラポール>である。この<ラポール>は最も基礎的なものであり、最も最終的なものでもある。

それはスタニスラフスキーによって提唱されたメソッドにおいては、前述の通り、「集中」と「リラックス」と呼ぶことができるだろう。メソッドにおける幾つかの方法論、目的やアクション、マジックif、モーメント・ビフォーなど、多くの「集中」を生み出すテクニックは、この<ラポール>を形成するため、すなわち<今−ここ>を生きるために有効である。

催眠的に言うと、集中とリラックスは、変性意識状態(トランス)を生み出す鍵でもある。つまり<今−ここ>を生きるとき、人は最も潜在意識が顕れやすい状態になっている、といえる。



2. 自己と・他者の<ラポール>


役者と役者(または演出家やスタッフ)における<ラポール>である。

これはコミュニケーションとも呼ぶことができる。また、メソッドの用語で「注意の輪」と呼ばれるものにも、おそらく代替することができる。しかし、それらが示すよりも尚一層深いものである。

ここで気を付けたいのは、「注意」というものは、あくまで「自己が他者に対して」行うものである。これは芝居をする上で度々「聞く」と言われているものである。しかし、僕の感覚では、「聞く」だけでは尚足りないと考える。それは1で示した「集中」と「リラックス」を呼び覚ますであろう。しかし、自己と他者の<ラポール>、を完全に言い表しているとは言いにくいからである。なぜなら、<ラポール>とは、「互いに開き合うこと」「互いに聞き合うこと」である。自己が他者に意識を集中させるだけではなく、他者も自己に対して集中できる状態、にまで持っていかなければならない。つまりは、「他者に自己を捧げる」という態度がどうしても必要になってくる。


さて、ここで別の問題が浮上してくる。「捧げる」という言葉を僕は使ったが、一体全体、何を捧げるのか、という問題である。

実は、この点において、論をより発展させなければならない。スタニスラフスキーは、度々フロイトとの関連がささやかれているようである。であるとすればスタニスラフスキーがとっていた態度というのは、心と身体を分離させて考えていたのではないか、ということである。(※後述するが、その後継者とされるリーストラスバーグの理論にはその分離に基づく考えがたしかに見られる。しかし、思い出す限りにおいて、スタニスラフスキーにはその考え方があるのかは疑問である。スタニスラフスキーがロシア人であり、リーストラスバーグがアメリカ人ということから、後者は自然と心身二元論の立場に立ってしまったのではないかと考える。)

今、僕が考えている<ラポール>においては、度々繰り返してきたように、心身一元論の立場をとる。つまり、意識も無意識も(つまり心)、身体と連続して繋がっており、身体の中に心が宿る、という考え方である。すなわち、相手に自己の全存在を捧げるというときに、たとえばテキストベースで、互いの打ち明け話や、性格分析を交換したとして、それだけでは不十分であることを意味する。なぜならそれだけでは自己の意識の中にあるものを相手と共有しているだけだからだ(テキストを書く=エクリチュールの問題は一度傍に置く)。スタニスラフスキーの理論の目的がそうであるように、僕も、意識が破れて、潜在意識が優位になる「聖なる瞬間」を、期待している。そのためにはあらゆる無意識も、同じように捧げられなければならない。

心身一元論の立場を守りながら、何を捧げるか、という問いに答えるとすれば、「それは心の宿る身体をこそ、捧げるべきだ」ということになる。そして相手が自己を捧げるように促すためにこそ、「注意」「観察」「聞くこと」「傾聴すること」が大事なのではないだろうか。(これは裸で交わることを意味してはいない。究極的にはそう言えなくもないかもしれないが、快楽を得ようとする目的に結びついた瞬間に本質を損なう。)



3. 自己と・登場人物の<ラポール>


役者と登場人物における<ラポール>である。

ここで注意すべきなのは、登場人物は身体を持っておらず、その遍歴の一部を開示するのみである、ということである。そうであるから、このラポールを形成するためには「想像力」を駆使する必要がある。つまり、登場人物のことを想像し、役者はその人物に成る、ということである。そのために、リーストラスバーグのいうところの「感覚の記憶」「感情の記憶」を使う必要がある。

しかし、ここでも先ほどと同じ問題が浮上する。つまり、自分の想像力や記憶などを使って、人物を演じようとすることは、果たして<ラポール>といえるだろうか、ということである。つまり、そこには一方向の矢印しか存在しない。そこでは、登場人物が自己に一方的に存在を捧げ、自己がそれをうまくやりくりしているだけである。先ほどと同じように、役者自身が、登場人物に、あらゆる自己を捧げる必要があるのである。

先ほど、心と身体の分離の問題について触れたが、リーストラスバーグの「記憶」という概念は、その分離をハッキリと示すものではないだろうか。なぜなら、記憶という精神=心に宿るものを使って、肉体で何かを再現することができると考えているからである。その心身二元論について、その考え方に異を唱えるつもりは毛頭ないが、問題となるのは、「記憶」というものは、それがたとえ催眠や瞑想によって隠れていたものを引き出したのだとしても、「意識」の上で把握してしまえば、それは表面的なものでしかなくなるということである。つまり、「記憶」を使って登場人物を演じようとする姿勢には、2つの問題点がある。一つは先ほど申し上げたように、自己が登場人物にその存在を捧げる、という態度を欠いている、という点。そしてもう一つは、どこまで行っても、「意識」を使ってでしか人物にアプローチできない点、である。

では、少なくともこの心身一元論に立つ限りにおいて、この<ラポール>を形成するための方法論は何だろうか。それは、登場人物は自己に対して主に脚本が提供する人生の遍歴の一部を捧げ、自己は登場人物に意識と無意識の宿る身体をこそ、捧げなければならないという帰結になる。

このために必要なのは、翻っておそらく「想像力」であろう(しかし恐らく「記憶」ではない)。そして自分の身体を捧げるということである。身体を捧げるということは、身体が存在する場=生活を捧げるということでもある。これは極端な例としてはデニーロアプローチともなりうるが、ほかの方法も有効だろうと思う。この種の無意識にアプローチする方法のうちの一つ・マイズナーテクニックは、この点において(1においても)有効であると思われる。しかし、衝動的に無意識が発現するという訓練は、衝動的な発現を許さない場においては(与えられた台詞やミザン)、無意識の現れを阻害してしまいかねない。もちろん、徹底的に訓練すれば別なのかもしれないが。



舞台「エデン」は僕にとって、たいせつな契機になりそうだ。


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