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  • 執筆者の写真Jumpei Matsumoto

見るということ、あるいは作品と観客のラポール 3


以前の記事を久しぶりに読んで、非常に有意義なことが書かれていると感じたので(自分の考えや関心を自分で読んでいるので、そりゃそうだ!)、その続きを掲載することにした。



と言っても、久しぶり過ぎて、どのようなことを続きで考えていたのかわからない。笑

なので、メモに残っているものをそのまま掲載することにする。


<運動イメージ>の破れの末に<時間イメージ>が出現することがドゥルーズを引用しつつすでに述べた。そのために、映画が本物であり偽物である瞬間、つまり嘘であり真実でもある、その揺らぎにこそ、カメラを向けるべきであること。

この記事はその続きに対して、である。


映画が嘘(物語)であることを忘れさらせ、嘘(物語)を逆に怯えさせ、真実(イメージ)がただ真実(イメージ)として在り、役者がただの<人間>として、存在する瞬間。それこそが映画の破れの瞬間である。


これには、あり得そうもない大嘘をつくこと、によっても得られる。

その最たる例は、死者の復活である。例えば、カールドライヤーの『奇跡』が必然的に挙げられるであろう。

この映画はまさに、大ウソ(物語として出鱈目である物語)をつくことによって、映画の本性を暴く。そのことによってこの映画は、映画の意識的表皮を破り、無意識的な内臓と突破し、肉の向こうに、映画の「骨」を露出させる。


そのとき、カメラはどこに置かれるのか。

考えられるのは、どこでも良いということであろう。

なぜなら、その時カメラがとらえるのは、役者=人間の身体そのものであるし、映画に宿った映像と音の束、光、または闇であるからだ。

もはや、その時、カメラは、<揺らぎ>について関心を示さない、示す必要がないのだ。もう映画の本性は暴かれたのだから。その状態まで行った映画に対して、観客は物語的な帰着を要求することはない。どのような結末を迎えようが、どのような運動が提示されようが、それは、嘘のものでしかないからだ。

極端に言えば、その後はもはや映画は黒画面でも白画面でも構わないのだ。

そしてエイゼンシュタインのいうように、モンタージュの荒々しい力だけが残る。オデッサの階段の有名なシークエンスを見よ。垂直落下の力がすべてのカットに刻まれ、それらが類まれなるリズムで連なっている。それは身体運動とは全く別の運動=純粋運動なのである。

時間イメージに辿り着く観客に残されるのは、身体と光、色、そして純粋運動であろう。


しかし、問題は、そのような映画は、もはや見る価値があるだろうか、という問いだ。

そこで、まだまだ仮のものであるという前提で、僕はそのような場合、映画は常に物語であることに固執すべきではないかと提案してみる。

即ち、<仮構作用>と呼ばれるものである。


仮構作用とは、ベルグソンが提唱した概念で、人間あるいは集団が、その個人や社会を持続するために用いる表象である。それをベルグソンは宗教と関連付けて論じた。精神疾患の患者の作り話もその一つである。それは、生命を持続するために生まれる、信じられた虚構である。


映画は、その本性が詐欺師であり、大ウソであり、ただの映像の束でしかないことが明らかになった後に、それでも語り続けてもよい。事実、『奇跡』のラストシーンでドライヤーは、それまでのロングテイクとは打って変わって、執拗なまでにカットを割り続けるではないか。

その物語は到底信じられるに値しない。しかし、観客はそれでもそれを信じてもよい。そこに生命の創造的飛躍がある。


映画はそれでも物語つづけるとき、観客に対して、「信じること」を問い返す。

その時映画は貧しくてもいい。いいえ、貧しいからこそいい。問題はもはや、観客の信じる心しかないからだ。


それはつまり、ラポールなのである。互いに心を開き合うことだ。

真のラポールへの誘いなのだ。

ラポールが生み出すものこそが、聖なる瞬間だと前に書いた。映画と観客がラポールするとき、神秘的な聖なる体験が生まれる。

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