「演技とはラポールのことではないか」という仮説について考察を続けている。
近々、催眠のワークショップをやることになっているので、催眠について知識を深めようと、催眠療法を使った伝説的な医師ミルトン・エリクソンの著作を読んだ。続いてゲシュタルト療法についての本を読もうとしたのだけど、ふと思い立って、宮台真司先生に紹介してもらった湯浅泰雄氏の著作「ユングとキリスト教」を読んだ(宮台先生はカトリック信者で、僕も同じなので、時々ご連絡を取らせていただいたり、重要な示唆を頂戴したりする)。そしてそれは冒頭の仮説「演技とはラポールのことではないか」に対して、別の角度から一つの視座を与えてくれることになった。
湯浅氏の著作の主命題はおそらく、伝統的なキリスト教の歴史、または西欧精神史が主張し(当然の前提とし)、また世界にも蔓延している「肉と霊の分離」またはこう言い換えてもよければ「心身二元論」についての批判的な一石を投じることであろう。
湯浅氏がいうには、ユングは、フロイトらの系譜による神経症に対する理解(ある心のトラウマなどが、身体的な反応を引き起こしている)に対して、別の認識を提示する。つまりは、<身体と心は別個のものではなく、一つのものである>というのである。ユングは、意識と無意識とは連続したものであるという。そしてその無意識は個人的な無意識からさらにその奥深くに集合的無意識が隠されていると説く。集合的無意識とはつまり、ある人類に共通の共有している無意識(こういってもよければ記憶といってもいいのではないか)のことである。つまり、<一人の人間の身体のなかに、あらゆる全体が存在する>ということである。
ユングは、ユダヤ=キリスト教の神への信仰があった。しかしユダヤ=キリスト教の教会の歴史の歪ませてきたことを認識し、その歴史で捨てられてきたものを辿ること(主にグノーシス主義と錬金術の研究)によってそれを補正しようとする。
彼が言うには、伝統的なキリスト教は(特にニケ―ア公会議以降)、肉と霊が分離していること、そして肉は根本的に霊に劣っている、時にはそれどころか肉は罪の要因にしかなりえない、と主張してきたという(あくまで僕の体感では、日本のカトリック教会ではそのような感覚は感じにくい。15年ほど前に福音派プロテスタントの教会に出入りしていたが、そのときは感じたかもしれない)。それに対して、イエス・キリストは、「肉と霊はひとつ」であることを唱えたというのである(原グノーシス主義)。実際、イエスは人間の身体を「神の宮」と呼んだし、私たち一人一人が神々と呼ばれる可能性について、福音書の中で言及している。つまり、私たち一人一人の中に、神が宿る、というのである(湯浅氏の著作の言葉を借りれば、その種子が宿る)。
つまるところ湯浅氏やユングが言いたいことは、「人間の身体とは心に、そしてあらゆる全体に繋がっている。意識は個人的無意識に繋がり、集合的無意識に、やがて神に繋がる。」というのである。そしてミルトン・エリクソンの常套手段であった、クライアントの無意識的な傾向を用いる「利用」もそれを暗示するものだと考える。
翻って、ラポールについて考えてみようと思う。
役者は、人は、ラポールしたときに、なぜ最も魅力的たりうるのか。その答えが上記の中に見出せるのではないか。
人と人はラポールするときに、完全な信頼の中に入る。信頼とはお互いがお互いに相手に「ありのままの自己」を曝け出すことを許容するということであろう。人は外界と接するとき理性や感覚でそのものを判断し、あくまで理性や感覚を通して接する。つまりは「意識」で接するのである。しかし、恋人同士や親子、兄弟、仲間、もしくはラポールし合った関係になった場合、感情を露わにするようになるし、自分の中に確かに存在する歪な癖、のようなものを隠さなくなる。それは本人が自覚していないが、「無意識」によって発露している何者かである。意識はコントロールできるが、無意識はコントールしえない部分である。そして、無意識は同時にあらゆる人間同士の集合的な共有する何か(あるいは霊、あるいは神)にコネクトする。
ラポールは、無意識が意識に対して優位になる状態を可能にし、そして無意識の発露はそれが極まれば、人々が共有している何かをラポールの外にいる人々にも提示することになる。おそらくそれは感動を呼ぶであろう。
思えば、あらゆる演技の技術は、最終的には、この無意識が意識よりも優位な状態を作り出すためにあるのかもしれないとも思われる。たとえば「目的」と呼ばれるものは、その目的に集中させることによって、それ以外の部分で役者にまとわりついている無意識が滲み出るのを促すし、たとえばマイズナーテクニックは、無意識が衝動となって不意に現れるのを期待する。「代替者」などは言うに及ばない。
(追記:スタニスラフスキーの「俳優の仕事」を読んだのは随分前なので忘れていたが、調べて見ると、確かにスタニスラフスキーは、「意識的な手段を使って、潜在意識が現れやすくするために」システムを作り上げたそうだ。)
たとえば、この瞬間を「聖なる瞬間」と呼ぼう。それはある役者が、登場人物を通して、そしてその人物を超えて、役者自身を通して、そしてその自己を超えて、あらゆる全体をまとった心身が、ただそこに現れる、その瞬間である。
思い返してみれば、どんな映画においても、その「聖なる瞬間」を目撃したくて、観ているのかもしれない。そしてその「聖なる瞬間」の現われを期待し、その瞬間が現れるために準備し、祈りながら、映画を作っているのかもしれない。僕の中では、その「聖なる瞬間」が一つでもあれば、映画から大きな力を感じ、この一本に出会えてよかったと思うからである。
「演技とはラポールのことではないか」という仮説はもう少し考えを深めてみようと思う。つまり、ラポールこそが、<意識の破れ>をもたらし、<人間をあるがままの姿で普遍化する>のだ。
ここで、映画自体についても少し。
僕は映画についても以前から、<破れ>が必要だと常々思ってきた(過去作のすべてでそれに挑戦しているが、成功例もあれば失敗例もある)。
それは学生時代にむしゃぶりついて読んだ、ドゥルーズの影響がある。そして自身の映画鑑賞についての性癖もある。ドゥルーズは、運動イメージの破れこそが、映画に新しい契機(時間イメージ)をもたらすと言った。そして僕の考えでは、エイゼンシュタインのアトラクションのモンタージュ理論、ポールシュレイダーの聖なる映画についての理論も、このドゥルーズの運動・時間イメージ理論の範疇にある。そして僕自身が好きなのも、映画がその魂を膨張させ、それ自身の物語(意識の範疇にあるものといってもいい)の呪縛を超えて、<こちら側に迫って来る>というあの瞬間である。
言ってしまえば、これも映画それ自体における「聖なる瞬間」なのではないだろうか。芝居にとっても映画にとっても、<意識の破れ>こそが、それを決定的なものにするのかもしれない。
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