top of page
検索
  • 執筆者の写真Jumpei Matsumoto

撮ることについて

更新日:2021年10月19日


 まずはじめに。

 舞台『エデン』は8月1日の千秋楽をもって、無事に全公演、終了しました。身心をもって本作に出演してくださった役者のお一人お一人、本作を支え形作りまた支えてくださったスタッフの方々、そして山口ちはるプロデューサーに改めて感謝と敬意を捧げたいと思います。



 さて、演技についての考えを深めて以降、今度は撮影することについて考えている。

 以前の記事で「見るということ」について触れて、その続きを書きたいのだが、最近少し「撮る」ことについて考えていたので、ここでそれをまとめてみたい。


 映画というものが人間が鑑賞するものであり、人間が映されるものである限り、映画における役者というものは特権的な位置にいることは間違いないと思う。もちろん、役者こそがその中心的な被写体ではない作品も存在はする。しかし、そのような場合であっても、その作品が、フィクションである限りにおいて、役者はその作品中で信じられる存在でいるための、ある一定の演技をする必要がある。それを僕はラポールした状態と呼んでいる。僕はそのラポールした役者こそが映画に最大の力を与えると考えている。

 さて、そこでこのラポールした役者たちをどのように「撮る」かということが次の問題になる。実践的な撮影ということである(そして次に「見るということ」で触れるような、鑑賞者が見るイメージ=どこを撮るかが問題になる)。当然のことだが、この撮影には(演じることと同じように)、現場の要請、コンティニュイティの問題、または撮影することへの不安感、などから様々な邪魔者が入りやすい。ラポールを最もよく映し出そうとして、撮ることについて考えるとき、一定の方法論が必要だということである。

 その方法について、この場を借りて、整理したいと思う。本当にただの自分用のメモだが、ご容赦ください。



 どのような場合にも共通する前提として、役者がラポールを形成した状態になることが必要である。いくつかの手順を踏んで、ラポールを形成するいわゆるリハーサル時間が必要とされる。



 次に撮影段階に入るが、ラポールしている役者に対して、最も有効な手段は、リュミエール兄弟を例に出すまでもなく、ただ撮ることである。僕はドゥルーズの「素朴に見る」という言い方を借りて、「素朴に撮る」と呼ぼう。しかし、ラポールを形成している役者を、「素朴に撮る」ことは慎重さと丁寧さ、そしてある意味では大胆さを要する。



 撮影の手順として、僕は以下のような方法こそが有効ではないかと考える。


・段取りで演じることの禁止。段取りでは(台本を手にしててもいい)棒読みで台詞をいいながら、動きを確認する。

・テストは廃止する。

・本番テイク1で、役者は初めて役を演じる。

・できれば1テイク、できるだけ少ないテイク数でOKとする。(テイクを20.30といった極大にする方法も有効だと考える。しかし、それは日本の多くの現場において非現実的であろう)


 これらはラポールしている役者の最も新鮮な状態を撮影するためである。そして演技は数を重ねていくごとに、うまく行ったパターンを模倣しようとするし、相手役がどう来るかもわかってきてしまう。あらゆる場合がそうであるように1回目というは特別である。それを撮りたいと僕は思う。

 もちろん、技術的にあまりに困難なカットにおいては、この原則は当たらない場合がある。しかし、いつも肝に銘じるべきは、撮影や照明や録音の技術的な巧さよりも、ラポールしている役者の方が、はるかに鑑賞者の心を揺さぶる、ということだ。



 次に撮影のカット割りと関わる問題について。


・原則として、クローズアップを第一番目に撮る。

・細切れに撮ってはならない。できるだけ長い芝居の中で、可能であればシーンまるごと演じている役者を、撮る。

・ラポールを損なわずに撮るために、または繰り返し撮るのを避けるために、芝居に沿った形でのショット内でのズームインやズームバックは許可される。むしろ、推奨される。

・つまり問題は、如何に割るか、ではなく、如何に割らないか、である。

・移動することが可能な装備であれば、シーンまるごと演じる役者を(動きながら)一連で撮る。


 撮影というものに紐づく条件として、ワンシーン=ワンショット、または複数台のカメラがない限り、何回か本番テイクを重ねなければならないという決定的な不自由さを免れることはできない。つまり、先ほどの特別なテイク1を常に逃さざるを得ない。その不自由さをできる限り最小にするために、撮影順序というのが大事になる。

 人間にとって、根源的に<顔>というのは特別なものである。私たちは顔を見合ってコミュニケーションするし、我々は顔を観賞することに長け、顔に最もラポールが現れる。(次に、あるいは同じくらいに、<声>であろう、と思う。)

 また、カット割りに従って、細切れに撮影すれば、それはラポールを殺すことになる。短い時間の芝居だと、役者はあまりにも上手に嘘をつけすぎる、即ちフィクションであろう頑張ることができる。しかし長い芝居だとそれができない。役者は自分が詐欺師であり、ただの人間であることを露呈してしまう。それこそが重要なことなのだ。カメラのズーム機能を使うことは敬遠されがちだが、それは映像の美学的側面を優先しているからだ。ラポールを優先するとき、むしろそれは推奨される。



 補足。

 「特別なテイク1を常に逃さざるを得ない」ということの呪縛を、最大限に逃れるにはどうするべきだろうか。簡単に結論付ければ、常にテイク1であればよい、ということだ。常に前のどのテイクとも異なり、新鮮さがあればよいのだ。

 これを達成する方法として、1つはテイク数を極大にする、ということがある。1テイクごとに修正があるわけではなく、ただひたすら理由もなく繰り返すことによって、一種の混乱とランナーズハイのような状態になれば、恐らく常にテイク1に近い状態になりうるだろう。しかし、これは時間的な面で非現実的である場合が多い。時間的な条件をクリアにする必要がある。

 別の方法として、台本を知らない、ということがある。つまり、毎回エチュードであり、毎回変えることを要求される。だが、これもどうしても不安感により、先のテイクを模倣してしまいがちになってしまう恐れが高いかもしれない。役者と演出家との間に極めて強いラポール(信頼関係)を必要とする。

 また、先に述べたように、ワンシーン=ワンカット、またはシーン全体を限りなく少ないカット割りにしていく、という方法がある。この時に信頼される指標は<声>である。<顔>はこのような設計の場合、基本的に逃してしまわざるをえない。しかし、<声>はいくら役者のサイズが小さくなっても、鑑賞者に届く。ラポールが形成された役者の声は、真実味がある。しかし、注意すべきはこの場合、テイク1や少ないテイク数が功を奏するとは限らないように思われることだ。なぜなら、この場合、カメラの動きの段取りや役者のミザンセーヌが重要になるからだ。だから、これらが完成するまで時にはテイクを重ねなければならない。また、シーンごとのカット数が少ないことによる、時間的な軽減も、これを可能にしやすくする。


 また、撮る方法論とは別に、もう一つの基礎的な方法としては、役者の問題としてラポールを十全に形成しておくということがある。事前にテキストに親しむと同時に、幾つかの方法によって役とラポールを築く。そして相手の役者ともラポールを築く。役の豊かさを身体でわかれば、セリフのニュアンスに囚われることは極小になる。本番でも常にラポールを築き続けることができれば、常にテイク1に近似していくことは可能だろう。



 次に主に照明について。


・ワンカットごとに大胆に照明をセットし直してはならない。

・長時間の撮影準備の禁止


 ラポールは、漫然と時間を過ごせば、破壊される。シーンの撮影が始まったら、役者を長時間待たせてはならない。

 できる限り、自然光で撮影することが、ラポールの形成を促す。しかし、これはその限りではない。



 次にカメラの運動について。(基本装備が手持ちカメラである場合を除く)


・カメラは「素朴に撮る」ためにこそ運動する。

・カメラが運動するとき、役者とラポールすることによって、連動して運動する。決してカメラが自立して動いてはならない。

・素朴に撮るためではない、自立した移動撮影を禁止する。(たとえばストーリーテリングを言い訳にしてはならない)

・原則として手持ち撮影を禁止する。

(・カメラが素朴に撮るためではない運動をするとき、それは提出するイメージに特別な要請があるときである。さらに役者のラポールとは関係のないときである。ここは入念に検討されなければならない)


 カメラが存在を主張してはならない。その時、役者がラポールしていても、鑑賞者にとって、それを見せなく、または見えにくくしてしまう。余計な移動撮影は不要。フレーミングが固定されたショットが多い場合、手持ちカメラはエフェクトでしかなくなるので、これも不要である。これは映画に無駄な音楽が不要であり、演技に観客に見せようとする姿勢が不要なことを思い浮かべるなら理解しやすい。



 次に手持ちカメラの場合。


・手持ちカメラは、手持ちであるということが撮影者の存在を示す。それこそが重要であるのだから、手持ちカメラを選択した場合、動かないショットであっても、手持ちであり続けなければならない。

・原則、フレーミングを固定したショットを禁止する。移動する場合も、レールは用いずに歩くこと。

・手持ち撮影は、撮影者の存在が強調される。眼差しであること。人物を見守ること。あるいは近づくこと。

・手持ち撮影は、機動性を持つ。カメラは動くこと。前述のように、シーンは通しで、動きながら撮影されること。

・手持ち撮影は、機動性を持つ。なるべく早く撮ること。


◾️


 また、手持ち撮影は、撮影者の存在を示すという意味で、「素朴に見る」こととは別の地平に開かれている。すなわち、ラポールである。

 このような方法を選ぼうとする場合、カメラをオペレートする人間は、役者とラポールしなければならない。さらに演出家ともラポールしなければならない。ラポールするとき、最も重要なのは、ほかでもないラポールそのものになる。カメラは即興的に動いて構わないし、その余地を持たなければならない。その余地を奪うなら、それはラポールではなく、それは型にはまることしか意味しない。だからこそ、この場合、決定的な自由さがなければならない。つまり、カメラのもう一つの不自由さである、フォーカスから自由である必要がある。レンズは極めて巧みなフォーカスマンを必要とするか、またはワイドレンズを選ばざるを得なくなる。ワイドレンズを選ぶ場合、必然的に被写体とオペレーターは近づくことになり、一層強力にラポールこそが重要になる。

 この時、撮ることは変容し、ラポールし、同調し、体験することに近くなっていく。



 以上、備忘録として。

閲覧数:61回0件のコメント

最新記事

すべて表示

見るということ、あるいは作品と観客のラポール 3

以前の記事を久しぶりに読んで、非常に有意義なことが書かれていると感じたので(自分の考えや関心を自分で読んでいるので、そりゃそうだ!)、その続きを掲載することにした。 https://www.jumpei-matsumoto.com/post/%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%80%81%E3%81%

新作クランクアップしました。

もう10日ほど前のことですが、新作の撮影がクランクアップしました。 「デビュー作のつもりで撮る」という感覚で臨ませていただき、撮影のシステムの中で、これまで課題に感じていたことを一気に解決すべく、様々な挑戦をさせていただきました。 演出部の廃止(段取りよりも創造的な感覚を優先する)、照明部の廃止、コンテの廃止、少人数体制による長期間の撮影、段取り・テストの廃止、役者のラポールを生み出すこと、そのた

見るということ、あるいは作品と観客のラポール 2

(承前) ■ ドゥルーズは、映画に現れるイメージを、運動イメージと時間イメージに切り分けた。そして映画は基本的にはその誕生時から運動イメージに支配され続けてきた(言い方は僕なりの解釈で、原文ママではない)と述べ、運動イメージをさらに分類している。 運動の起点となる0次性=知覚イメージ、運動を司る者(すなわち物語の人物)の内的な運動である次なる1次性=情動イメージ、さらに目的をもった運動が現れる2次

bottom of page