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  • Jumpei Matsumoto

見るということ、あるいは作品と観客のラポール 2

(承前)

 ドゥルーズは、映画に現れるイメージを、運動イメージと時間イメージに切り分けた。そして映画は基本的にはその誕生時から運動イメージに支配され続けてきた(言い方は僕なりの解釈で、原文ママではない)と述べ、運動イメージをさらに分類している。

 運動の起点となる0次性=知覚イメージ、運動を司る者(すなわち物語の人物)の内的な運動である次なる1次性=情動イメージ、さらに目的をもった運動が現れる2次性=行動イメージ、である。さらにドゥルーズは、3次性として、そのフィギュール(形姿)にあたり、それを要約する関係イメージ、または反映イメージと呼ばれるレイヤーを設けている。そしてそれらはいずれも感覚―運動図式の範疇であると論じる。

 そして時間イメージとは、その感覚―運動図式が破れた末に現れる、というのだ。2次性である行動イメージの危機が訪れ、そのような知覚→情動→の結果として、次なる行動が生まれなくなってしまう、という。その時、映画の人物が運動の起点とするための知覚は影を潜め、行動に繋がることのない物の知覚という側面が強く現れはじめる。これは当然、劇中の人物についてもいえることだが、とりもなおさず、椅子で動かずに映画を観続ける(映像を知覚し続ける)観客にも言えることとなる。


 ドゥルーズが語ろうとしたことは、誤解を恐れずに非常に平たく言えば、イメージは物語(すなわち感覚―運動図式)から解放されてはじめて、それ以外の姿をもって、ありのままの姿で観客の目の前に現われはじめる、ということである(釈明、非常に平たく言ってる)。これはとても簡単な例を挙げれば理解できる。「ウォーリーをさがせ」という本に、本当はどんな画(イメージ)が書いてるのかを、説明できる人はわずかだろう。みんなそれを見ているようで見ていないからだ。なぜなら、みんな、ウォーリーを探しているからなのだ。ウォーリーを探す必要も理由もなくなり、ウォーリーのことすらも忘れかけた時、はじめて人は「ウォーリーをさがせ」という本を、ありのままに見るのである。


 ここにきて、映画というイメージが真に見られる(ドゥルーズは「素朴に見る」という)ためにはどうすればよいか、その手掛かりが少し掴めるように思う。

 映画が物語(感覚―運動図式)であるということを「本物」であるとしよう。なぜなら映画とは多くの場合、そのために生まれ、そのために存在しているものとして、自らを現すからだ。そして映画が自らがただのイメージの束に過ぎないという側面を、映画が「偽物」であるとしよう。なぜなら映画のイメージとは、一つの光と音に過ぎないのであり、登場人物は、ただの演者=別の人間(詐欺師)に過ぎないのであるからだ。そしてそれこそがまさに映画の総体であるに他ならない。人間が、その個体性・人称性を乗り越えて、その奥底にあるもの(ユングのいう集合的無意識のレベルまで)をすべて曝け出すとき、はじめて<普遍化>されるように、映画はその総体を曝け出すとき、はじめて映画の外、すなわち<全体>へと開かれる。


 カメラの問題に戻ろう。何かが起こりそうな場所にカメラを置け――というのは一体どこのことを言っているのか。

 上記の考えをベースにするならば、映画は「その本物性と偽物性が織り交ざる場所」でこそ、なにかが起こっている、ということになる。そこでこそ、作品を見つめる観客には、揺らぎ=動的平衡が生じるからだ。それはどこか。


 一つは、まず「顔」である。顔を映すだけでは、揺らぎは生じない。顔を仔細に、極大にまで見つめるなら、その時映画の中の人物は、ただの別の人間である痕跡を見せるようになる。そうして、映画は「偽物」であることが暴かれるようになる。どのようにうまく本物であるように演じたところで、演じていることを隠すことはできない。

 一つは、「人物」と「その身体」である。しかし、すでに決定された動きやセリフを言うとき、映画は「本物」であり続ける。ある特定の演出や状況によって、または特異な運動によって、人物が役者=偽物であることを露呈させるとき、揺らぎは生まれる。

 一つは、「場所」である。しかし、スタジオやセットでの撮影では、基本的に映画は上手に「本物」であり続ける。このことで揺らぎを生じさせるためには、その場所があまりにも貧しいことが必要である。つまり、あまりにもリアリティない。ロケーション撮影を行う必要がある。そして「その時」の「場所」を記録することだ。

 一つは、「光」「風」「火」「水」「自然」である。太陽の光や、風で揺らぐ木々に目を向けるとき、または不意に降って来る雨や、雪を記録するとき、自然は映画が「本物」ではなく、詐欺師であり「偽物」であることを暴く。(そのためにこそ、パンフォーカスは有用である)

 一つは、「ロングテイク」である。中でも「1回性を強調するロングテイク」である。まず、短い持続時間しか持たないショットは、「偽物」であることを露呈させづらいため、映画は「本物」であることを保ち続けることができる。であるから、ショットは「ロングテイク」であればあるほど、「偽物」であることを曝け出してしまう余地がある、ということができる。しかし、ロングテイクだとしても、すべてが計算されつくし、入念にリハーサルされたロングテイクには、隙がなく、揺らぎがうまれない。1回性を強調するなら揺らぎは増大することになる。たとえば、電車がやってきて、ホームに停車し、また出発するまでの間。ホームに停車する間に電車の中と外で会話がなされたとして、その間をずっとロングテイクで記録したとする。それは電車を貸し切り、何度も何度もやるのでない限り、1回性は極めて高い。そのようなショットを観客が目の当たりにするとき、映画は「そもそもが偽物であった」ことを観客に思い出させてしまう。一言で言えば、そのショットの成否を一緒に見守り、「ハラハラする」のである。たとえば、小舟に乗っての長い会話の末に、人物の一人が川に飛び込む。それをロングテイクで捕らえるとき、観客はハラハラする。なぜなら映画が偽物あることを思い出し、それでも本物であり続けてくれるかどうか、心配になるからである。心配になるというわけではないが、マジックアワーのロングテイクのような1回性も、多少はこれに寄与する。

 一つは、カメラの問題とは少し離れるが、「つなぎ間違い」である。これは度々ドゥルーズも言及することであるが、映画の空間や編集が上手につながっておらず、空間把握や美術、など明らかに間違っていることである。これは例えば、小津安二郎の映画を想起すればわかりやすい。


 ここにきて、用語の反転が生じる。

 映画は自らを「本物」であり、「偽物」であることを隠そうとする。これは映画からの視点である。

 しかし、観客の視点に立つならば、映画は最初からフィクショナルなもの、すなわち「虚構」であることを知っている。そして偽物が暴かれた末に現れる詐欺師の姿こそが、「真実」であるのだ。

 映画の「本物」は「虚構」にとって代わり、「偽物」は「真実」になる。


 さて、「揺らぎ」こそカメラが見つめるものであることがわかった。しかし、では物語やそれに則したイベントというのは撮る必要がないのかというと、そうではない。映画に物語は必要である。なぜなら、多くの観客は物語を見に来ているし、ウォーリーのいない「ウォーリーをさがせ」には用はないのである。物語があるからこそ、観客は闇の中に身をゆだね、心を開いてイメージを見つめるのである。

 論点の中心的な視座は<ラポール>であることを思い出そう。<ラポール>であるならば、観客も作品に対して自らを開かなければならない。観客に自らを開くように促すもの、開きやすいように準備するもの、それこそが物語である。

 だから、カメラはまた、ストーリーを「持続」させ、「本物」=「虚構」であることを「持続」させるためにも、置かれなければならない。映画が不特定多数の大衆に向けられたものであるならば、である。


 最後に、その「持続」が「揺らぎ」、やがて「破れ」てしまったとき、即ち観客が作品と完全に<ラポール>し、その最深部に辿り着いたとき(そしてそのとき観客は鏡のように自分の最深部を見る)、カメラはどこに置かれるのか、ドゥルーズの時間イメージを根拠にしつつ、少し考えてみたい。(つづく)

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