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  • Jumpei Matsumoto

ラポールについて

先日、高石宏輔先生と久しぶりに再会した。僕は7・8年頃前、催眠を勉強しており、高石先生はその師匠である。

会場に集まってる関係者の一人に、高石先生が催眠をかけている。催眠の場を久しぶりに目撃して、先生がかつて何度も使っていた<ラポール>という言葉を思い出した。

ラポールとはフランス語が語源の心理学用語だが、「調和した関係」「心が通い合う関係」を意味している。そしてそれを思い出したのは他でもない<演技>と<演出>について想いを巡らしていたからである。つまり、演技とは何か、演出とは何か、それはすべて<ラポール>なのではないかと考えたからである。

この夏に初舞台を演出することを前にして、改めて思索している。役者が演技という芸術を通して、最大の効果を上げるためには、いくつかの<ラポール>がうまく形成されなければならないのだ。


1.役者と演出家の<ラポール>


まずはこのラポールこそ、最初に(そして最後にも)重要である。

それは、役者が演出家に自分(その身体、場合によってはその精神)において制限をくわえることを許すこと、であり、同時に、演出家が役者に自分の作品において自由を与えること、である。

役者にできることは「演出家に従うこと」であり、演出家にできることは「役者を自由にすること」である。

もっと端的に言うならば、「互いに聞き合うこと」「互いに開き合うこと」である。

これはまさに前述の催眠の到達目標であるが、役者と演出家のこの関係性=ラポールこと、作品作りの基礎であり、作品作りの最も重要な要となる。なぜなら映画においてはカメラ、舞台においては客席が、常にこの関係に割り込み、揺るがそうとするからである。しかし役者はカメラ(機械、または機械の向こうの不特定多数)とラポールすることは出来ず、客席(不特定多数)とラポールすることもできないからである。(舞台において客席とラポールしているように思える瞬間があるだろうが、恐らくそれは客席とラポールしようとした結果ではない。このラポールは役者が不特定多数に妙に擦り寄るという結果しか産まないように思う。)



2.役者(身体)と役者(意識)の<ラポール>


役者は自らの身体について熟知し、自らの身体を意識によってコントロールし、意識が身体によってどう影響を受けるかについて自覚的でなければならない。これは音楽家が自分の愛用する楽器を知り、メンテナンスするようなものである。この分野については、舞台演出においては最も重要なことの一つになるだろうが、僕は門外漢である。

しかし、この点において別の重要な点を忘れないようにしたい。それは「リラックス」である。

リラックスは身体と意識の統一を促す。もしリラックス出来ていないなら、身体と意識はバラバラになり、その<ラポール>は崩れる。つまり役者はそのままの役者自身ではなくなる。意識が身体を支配しようとするか、身体が意識に反して暴れる。スタニスラフスキーは自分の著作において「身体のメンテナンス」と「リラックス」について多大なページ数を割いているし、リーストラスバーグは「リラックス」を最も重要な要素の一つにしている。「リラックス」は芝居をするうえで最も重要な要素であることに違いはない。しかし、このリラックスも、カメラや客席、そして演出家や共演者によって常に奪われる危険がいつも隣にある。



3.役者と役者の<ラポール>


役者同士のラポールは言わずもがな重要である。リーストラスバーグが、これも最も重要な要素の一つとして<集中><注意の輪>と呼んでいるものに近いかもしれない。これは催眠と最もよく似ている。つまり「互いに聞き合うこと」「互いに開き合うこと」である。このラポールを形成することが、稽古レッスンやリハーサルでの主だった目的であると思われる(そしてもう一つは、後述する登場人物とのもう一つのラポールだろう)。

このラポールを形成するには、まずはお互いへの、特にお互いの身体と言葉についての関心が必要だろう。この種のラポールの最たる例は、紛れもなくセックスだろう。身体は極大まで近づき、集中は相手のみに限定される。相手に対して常に耳が開かれ、言葉は届けられ、心は開かれているからである。

このラポールは最も重要だが、おそらく頻繁に無視される。スケジュールの都合で初対面で演技をしなければならないのは常だし、稽古においても別のことに意識が集中され、このラポールの形成を阻んでいる。それは即ち、次のラポールであり、とりわけ台詞である。



4.役者と登場人物の<ラポール>


最も厄介なラポールである。なぜなら、この一方には身体があるが、もう一方には身体がないからである。もっと言えばこの一方には精神があるが、もう一方には精神のカケラのようなものしかないからである。つまり一方は実だが、一方は虚だからである。

役者にとって、ほとんどの苦心はこの種のラポールの形成である。つまり役作りと言われるものである。役者は登場人物について熱心に調べ、知り、想像し、研究する。台詞を覚え、台詞を言い、出来る限りその登場人物になりきろうとする。しかし、ここで思い出さなければならないのは、再び、<ラポール>である。ラポールとは即ち、「互いに聞き合うこと」であり「互いに開き合うこと」である。つまり役者が登場人物のことを知るだけでは足りない。登場人物こそ、役者を知らなければならないのである。言い換えれば、登場人物は役者に与え、同じように、役者は登場人物に与えなければならないのである。

では何をあたえるのか。当然、まずは身体である(相手はそれを持っていないのだ!)。そしてあらゆる種類の自分の記憶であろう。結果として自らの精神も与えることになる。これはリーストラスバーグが、最重要要素として「感覚の記憶」「感情の記憶」と呼んでいるものに近い。つまり役者は、登場人物に自分を使ってもらわなければならないのだ。

逆に役者は登場人物のこれまでの過去の経歴を想像し、超目的や目的を考え、共感し、癖を身に着け、価値観を理解しようとする。脚本を分析して得られるあらゆる要素が、この点につかうことができる。

さて、しかし、最も面倒な要素がある。それは台詞である。台詞はすでにある程度決定されているものであり、この台詞の扱いを誤ると、登場人物とのラポールを形成する前に、登場人物についての思い込みを生むことになる。または前述のすべてのラポールの形成を妨げてしまう。台詞をいかに扱うかと言うのは極めて慎重に検討すべき案件である。大きく3つのやり方がある。一つは台詞を音で覚えてしまうやり方で、ニュアンスを排して繰り返し身に着けさせるやり方である。とにかく重要なことは最初から感情を入れた本読みをしてはならないことである。二つ目は台詞を随時変更するやり方で、役者と演出家が話合いながら、台詞を変え続ける。そして常にテキストが死なず、生きている状態を作り出すことである。もう一つはそもそも台詞を事前に(または永久に)与えない、ということである。



5.登場人物と登場人物の<ラポール>


上記のすべてのラポールが達成されるとき、それは自然に達成される。

そしてそれは作品とのラポールも意味し、ひいては不特定多数を作品に引き込むこともできるであろう。




以上である。


ラポールと言う観点から、演技と演出のことを考えるなら、多くのことが分かってくるのではないか。これからの舞台演出に向けて、そして今後の映画作品において、ラポールこそ重要だと考えてみようと思う。




最後にもう一つ特別な点について、メモしておきたい。


6.撮影現場において、<ラポール>をいかに記録するか。


この点は映画においてのみだが、映画においては根源的な問いだ。映画において、あらゆる役者が互いに、または監督を含むすべてのスタッフとうまくラポールしていたとしても、カメラという機械がそこに割り込む。カメラは機械である。機械とラポールすることはできない。しかもその機械は、残酷なまでに精密に正確に、目の前の現実を記録してしまう性質がある。

つまりこの機械を、いかに意識の外に置きながら、しかし最大の効果を上げる形で記録できるかが、撮影現場の勝負と言うことになる。このためにいくつかの検討すべき要素がある。それは使い方を誤れば、ラポールの形成を阻害、または破壊してしまうことになりかねないからだ。


・カメラに合わせて人物が配置される撮影

 これは即ち、機械を現場の最上位に置く考え方であり、役者はラポールすることができない相手に従わなければならないことになる。ここでミザンセーヌについて考えなければならないが、ミザンを演出が指定することは、カメラとは別の源から導かれており、登場人物にとって理由付けがあるならば、ラポールの妨げにはならない。むしろ人物の身体の動きを理解することで、ラポールを形成しやすくする。


・フレームを優先した照明

 画が役者以上に現場の支配権を持ってはならない。


・役者を執拗以上に待たせること

 現場を離れる時間が極大になると、ラポールが失われる。


・無駄なテイク数や無駄なテスト・リハーサル

 同じ芝居をする機会が無駄に多いことは集中を欠き、ラポールを失わせる。ただし、テイク数が極大になれば別の効果が生まれ、ラポール形成が促されることもありうる。また1度目の芝居についても、最大にラポールが形成されていることもありうる。(レンズの問題、フォーカスの問題、カメラの台数の問題など、「カメラは常に遅れて目撃する」というもう一つの本性に関する種々の課題は、このためにこそ考えなければならない)


・カメラに向かって演技すること

 これは基本的にはラポールを形成できないからだ。しかし、特別に演出家や登場人物とのラポールが形成されていれば別の話であり、大きな効果を上げることが考えうる。ただし、相手への台詞をカメラに向かって言うなら(小津のように)、それは形式的な美を優先することになり、演技の真実味には到達できないだろう。ただし、カメラの向こうか演者の傍にラポールしている相手役がいれば、これもまた話は別である。


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