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  • 執筆者の写真Jumpei Matsumoto

ラポールに基づいた演技

更新日:2021年6月13日

 「演技とはラポールのことではないか」という仮説について、考え続けて早2か月以上が過ぎて、理論的には概ね考えつくしたように思う。自分にとっての備忘録のためにも、ここに簡単に記しておこうと思う。


●まず前提として、<ラポール>とは、「互いに開き合うこと」「互いに聞き合うこと」という定義づけをした。これは精神医療で用いられている元来の意よりもより広い意味である。


●続いて、この<ラポール>に基づいた演技というのは前提として、心身一元論の考え方を取る。あえて書くとすれば、身心と書いてもよい。心と身体を一元的に考えるという観点は、古く東洋には馴染むが、西洋には馴染まない考え方である。欧米の主流の考え方は心と身体を別々に切り離された各々固有の異なるシステムと考えることだ。様々に調べて次第に判明したように思うことは、スタニスラフスキーは概ね心身一元論の考え方を取っていると思われるが、その後スタニスラフスキーの影響下で、アメリカを中心に浸透したメソッドには心身二元論的な考え方はチラホラと見受けられる。その代表的な考え方は、「感情はコントロールできる」という考えである。ここでは詳細は触れないが、ロシアのスタニスラフスキー、そしてマイケルチェーホフにはそのような考えは見受けにくい。


●さらに、もう一つの前提として、この演技法は、意識的な方法論によって無意識が立ち上がってくる瞬間を目指している(この目的はスタニスラフスキーと共通のものである)。その瞬間を聖なる瞬間と呼んでみたい。この点について心身一元論の立場に立って言うならば、無意識は身体の奥底に宿る、ということになる。(調べた文献によれば、いくつかの裏付けが脳科学的にも進んでいるらしい。手や足など意識によってコントロールできる身体は、感覚や思考を司る脳の部位と連動しており、内臓系など意識によってコントロールできない身体は、脳の周辺部分と連動しており、そこは感情や直観を司る部位ださそうだ。)


 以上の前提の上で、<ラポール>とは、いくつかのフェーズに分けることができる。


1.自己の<ラポール>

 時間についてのラポールといってもいい。ハイデガー的に言えば、過去と未来のラポール、とでもいうのだろうか。<今‐ここ>を生きるためのラポールである。

 このために必要な手段は、主に「気づき awareness」である。そしてそこから生まれる「集中」といってもいい。催眠用語を用いるとすれば、変性意識状態(トランス)に入ることだ。禅でいうところの瞑想、キリスト教的には観想、ヨガなどではマインドフルネス、などといい、「われなきわれ」へと続く。

 映画の演出などにおいて、主に現場でできる演出の多くは、この<今‐ここ>を生きさせるための「気づき」と「集中」を与えることに他ならない。それまでに調べてきた役についての知識や、目の前の相手、与えられた状況、身体の感覚、あらゆることがこの<ラポール>を生み出すために使える。つまりは「気づく」ことなのである。


2.自己と他者の<ラポール>

 これは空間についてのラポールである。相手とのラポール。一番わかりやすいラポールといってもいい。このためにこそ「聴くこと」を用いると考える。

 マイケルチェーホフは、このために有用な視点を与えている。「聴く」ということの中には、「受け入れること」「放つこと・与えること」が含まれるという。1段階目の「聴く」は、音を聞く。これは内容はほぼ頭に入って来てないが、音を耳に入れているという状態。2段階目の「聴く」は、話(情報)を聞く。相手の中に自分の意識を放つ。3段階目の「聴く」は、相手を知ろうとすること。相手を自分の中に受け入れること。4段階目の「聴く」は、相手に自己を投企せんとして聞く。自分を相手に捧げること。


3.自己と役の<ラポール>

 これも空間的なラポールであるが、相手が身体を持っていない点が2と異なる。このためにも「聴く」ことが有効だが、どうしても「想像力」が必要とされる。

 このためにも前に述べた4つの「聴く」は使える。2の「聴く」で役の情報を知り、分析・研究をし、3の「聴く」で役を自分の中に受け入れる。4の「聴く」で共に未来をつくるために自己を役に捧げる。ただし、身体のない役は実際に言葉を話すわけでもない。ボディランゲージもない。そのために重要なのが「想像力」だが、ここで問題のは意識だけを使って役にアプローチするとしたら、聖なる瞬間には辿り着けないだろうということだ。なぜなら意識による抽出・判断は役へのアプローチを明快化(簡略化)するもので、無意識の部分を切って捨てることになるからだ。これは3と4の過程で慎重さが必要ということを意味する。つまり、意識でアプローチするのではなく、身体で直接、役にアプローチするしかない。自分の身体は知っているが、自分の意識は自分でその存在を知らないモノ(すなわち無意識)を使って、役とラポールする。そして、ラポールしてるその様を無理に言語化したりする必要はない。理解しようとして要点をまとめようとした途端にラポールは阻害される。(これは現実の対人関係でも言える。よく知る友人を要点にまとめて記述することはできるだろうか。)


 ちなみに、2の<ラポール>も、3の<ラポール>も、映画の現場では演出家が役者と伴走する十分な時間を得られない。2はまだ現場での即興性があるが、3は普通時間がかかる(撮影日を追って少しずつできる、という感じだろうか)。逆に言えば、演出家は、与えられた時間で2と3の<ラポール>の形成を強く促す処方箋を持たなければならない、ということだろう。


4.自己の身心の<ラポール>

 これはラポールと呼んでいいかわからないが、基礎的なものとして、役者は「感覚を覚醒」させておく必要があるように思う。身体の感覚を鋭敏にしていることが、身体に宿る豊かさ(無意識)の発現を促すであろうことは確かだし、身体を使って役を把握したり、相手の役者や、<今‐ここ>を感じたりするときに、大いに役立つだろうと思われる。これは「質quality」「雰囲気atmosphere」と呼ばれるものである。

 この<ラポール>は、たとえば映画の現場では、演出家が役者をフォローアップすることはほぼできない。これは役者自身と役者を養成するプロフェッショナルにこそ譲られる領域だろうと思う。


以上


 「演技とはラポールのことではないか」という仮説を立てて、暫く集中的に勉強して、とても良かったなと思う。今まで様々な理論を読んで・鵜呑みにしたり・よくわからなかったり・批判したくなったり・論のための演技になったり・みたいな演技論が、<ラポール>というパースペクティブから切り崩され、溶解し、その本質的な魂の姿を垣間見せつつ、重要なポイントを啓示してくれ、体系的になっていくように感じた。

 ここで考えたことを基に、7月24日からの舞台「エデン」は尽力しようと思う。<ラポール>の観点から新しく考案してみた演出もある。どうなることやら…!


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