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  • 執筆者の写真Jumpei Matsumoto

撮影しながら、考えたこと。

更新日:2020年11月5日

先日、新作の撮影を終えました。

「終えた」といっても、残念ながら中断です。一部の重要なシークエンスの撮影場所が、コロナの問題で使えなくなってしまったため、クランクアップを前に、そのシーンだけ残して、中断するという苦渋の決断をせざるを得ませんでした。

とても残念で悔しい事態ですが、気を取り直して、これもきっとこの作品にとって必要な何かであると前向きに考えて、追加撮影のチャンスを図っています。

今は、まずは命と健康を守ることを第一に過ごしたいと思います。


さて、今回の撮影が終わって、その余韻を感じながら、ロベール・ブレッソンの『シネマトグラフ覚書』を読んでいて、演出や撮影について、色々と考えることがありました。ずっと考えてきたことですが、改めてちゃんと文章にしておきたいと思ったので、記しておきます。


問題の核心は、俳優の在り方であり、そのための撮影の方法論です。


僕は以前から、映画の監督としては常に、俳優の演技ではなく、俳優の人間としての存在が発露している瞬間を撮りたいと考えるタイプです。映画を始める前から、映画を見ていて魅了される瞬間は、やはりそこなのです。ブレッソンの言葉を借りるとすれば、<再現>ではなく、<創造><生成>されるものを撮影したいと思うのです。

ブレッソンは「演技というものは、嘘をつくこと」であると言います。それはすなわち、<再現>であり、巧みに<見せかける>ことです。ブレッソンによれば(そして僕も共感しますが)それは演劇に固有のものであり、映画に固有のものではない、と見做されます。そして職業としての「俳優」は、演劇と密接なものであり、映画においてはそうであるべきではないと言います。映画にとって固有の被写体を、ブレッソンは「モデル」と呼びます。そもそも演劇には、俳優の身体という真実を前提にします。観客は真実を目撃するわけです。しかし、映画は、スクリーンに映し出された光であり、そこに真実の身体や真実のエモーションが内在しているわけではありません。だからブレッソンは、映画には<貧しさ>が必要であると言います。つまり、誇張した嘘や意図を排していき、隠され、秘められ、気付かれてもいない真実を映し出されなければならない、と。そのために必要なのは俳優ではなく、モデルなのです。

僕はその考え方に共感を覚えています。魅力的なものは、人間それ自身です。だから僕はオーディションでも「演技を見る」ということをあまり必要としません。基本的には、ただその人=役者と話すだけでよい、と考えています。


しかし、同時に僕の関心事は、いかに脚本を面白くし、飽きさせず、笑わせ、泣かせ、緊張させ、安心させ、主題を観客に届けるのか、ということです。ストーリテリングということですし、僕の場合は主題にこだわるので、主題を届けることが必要だと思うタイプだと自覚しています。


一つ目のこだわりと、二つ目のこだわり、片方ずつ実現しても僕にとってはあまり意味がありません。だからブレッソンのように極めて削ぎ落とされた被写体を登場させることでは満足できないし、俳優を自由にして即興で作品を生み出すことも、かといってすべての要素をコントロールして俳優はストーリーに従属しているようにもしたくない。この二つの要素を同時に実現するにはどうすればいいのか。偉大な監督たちのあとを追って、僕も未熟ながらに、現場を踏むごとに考え続けています。


今回撮影していた映画は、日常を描く作品であり、題材自体の虚構性が薄い作品でもあったこともあり、撮影監督の長野泰隆氏やキャストの皆さんとも相談をし、協力してもらい、いくつかのことに挑戦しました。


1)テストの廃止

少なくとも僕の知っている日本映画の現場は、ひとつのシーンを撮影する際に、段取りをやり、それからカット割り打ちをして、カメラを構え、テストをして、本番をします。このテストはスタッフの技術的な準備と確認に当てられますが、役者はここである程度の力で芝居をしてしまいます。ですが、僕はできるだけ初めて芝居をする役者を撮影したいのです。役者同士も、ある程度の手の内というか、お互いにどんな声を出して、どんな解釈で芝居をしてくるかというのをあらかじめ知っているのをやめたいのです。そこで、キャスト・スタッフの皆さんにお願いして、技術的に難易度の高い幾つかのショットを除いて、テストを廃止しました。技術的にテストの要請がある場合も、役者さんはなるべく動作だけをするようにお願いしました。


2)自然光での撮影

厳密にいうと、自然光ではなく、自然光に近い光ということなのですが、照明を最低限にしてもらうことにしました。僕の感覚では、照明がガンガンに焚かれた状態と、あくまで自然光を補足する程度の照明状態では、役者の自然さの獲得の難易度は大きく変わるはずだと思います。現に、今回来てもらった2歳の子役は、その現場にいるスタッフの人数や空気を敏感に感じ取ってしまい、一時的に撮影不能に陥ることもありました。人間の本性として、無意識かもしれませんが、そのようなことはあるのだろうと思います。


3)早く撮る

これは早撮りということではなく、役者の準備ができたら、その一回性を、まとった空気とともに、ドキュメントのように素早く撮るということです。これは1と2の結果として生み出されることです。



以上のことを挑戦しながら、先にあげたこだわりに対する、ある一定の成果を感じつつ(編集していないのでまだなんともいえないのですが。笑)、次に挑戦するべき課題も見えてきました。


a)段取りに対する課題

今回、時々思ったのは、段取りの際に、テストの際と同じような機会損失があるなあ、ということです。段取りのお芝居が、第1回目の役者の存在の発露になっていることがあると思ったのです。そしていわゆる本番のテイク1は、役者が芝居する2回目の機会になっていることがあるということです。もちろん1回目が一番良いとは限りません。しかし、1回目でカメラが回っていないというのは、なんとか改善したいことです。段取りは、たとえば、もっと動作・動きだけに限定されたもの、セリフはニュアンスを排した棒読みでの段取り、にすることによって、より一層、生な・生成されていく創造的瞬間を撮影することに繋がるのではないかと考えました。


b)撮影順に対する課題

今回も何度かは注意したことですが、カット割りを決めたあとの、撮影順の問題です。映画というのは編集されたいくつかの映像です。映画に固有の問題として、必然的に、何度かカメラを回し、役者は同じ演技を繰り返さなければなりません。つまり、シーンの頭から順番に埋めていくように撮るというのでは、うまく生成されていく瞬間を撮影できないということです。イーストウッドがそのようにしていると聞いたことがありますが、恐らく、真っ先にクローズアップを撮ったほうが良いのだろうと思います。ドゥルーズのいう、3つのイメージ(感情イメージ、行動イメージ、知覚イメージ)の内、感情イメージがもっとも役者の生な存在や、一回性と強く結びついています。だからこそ、感情イメージを撮影することを真っ先に狙い、それから行動イメージ、それから知覚イメージです。ただし、光の状態によっては、知覚イメージを狙うべき瞬間は限られており、その場合はこちらを優先せざるを得ないこともあるのだろう。もしくは、もうひとつの手段は、カメラを多く用意して、一気に撮るという方法もありますが、これは現実的ではない方法でしょう。。。



ただし、上のような撮影の方法論には、撮影前のいくつかの大切な前提が必要になるだろうと思います。<役者自身>と<役>との関係です。

上の方法のためには、やはりキャスティングこそがもっとも大事だと思います。繰り返してテイクを重ねることをしないやり方でいくとすると、役の人物と、役者自身の、距離の近さを測る必要があるからです。または、役者が役に近づく・役を近づけさせる作業(実際に撮影されるシーンの稽古はせずに、役の背景やシーンの理解、テキストを繰り返し染み込ませる)や、脚本が役者と役を近づける作業(当て書き、または当て書きを繰り返し続ける)、または役については役者は全く知らないこと、などの繊細な工夫が必要だろうと思います。

そして撮影現場では、監督ができることは、ただ、ひたすら、役者に役者自身の<存在>が映し出される(映し出されてしまう)ことを許容し、理解し、受け入れ続けることなのだろうと思います。そして予定調和を生み出さないために、その瞬間の天候や、風、状況、あらゆるアイデアを取り入れて、刺激し、その化学反応が生まれる瞬間を、受け入れることなのだろう、


もはや完全に自分用のメモでしかなくなってきましたが笑、以上のように多くことを考えさせられる撮影となりました。


追加撮影、そして来たるべき(できるだけ早く来てほしい!)次の作品のために、まだまだ考え続け、実践し続け、試行錯誤していきたいと思います。



そういえば、これとは全く趣を変えて、こだわりを達成する方法があるだろうと思っている。オートマティズムとして、ブレッソンも言及しているが、演技というものの自意識がなくなるまで、何度も何度も何度もテイクを重ねていくという方法です。

これが日本映画でやれる環境があるのかどうかはわからないけれど(そして僕の人間性としてこれが適するのかはわからないけれど)、尊敬する監督たちはこの方法を選んでもいる。


うん、これはやっぱり自分用のメモだなあ…。笑 然るべき時に読み返します。


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