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  • 執筆者の写真Jumpei Matsumoto

映画について、日々考えていること。

更新日:2020年11月5日

先日考えていることを記載して、それから引き続き考えている。というか、色々これまで考えてきたことを整理したいと思うようになった。時間があるからだろうかな。


役者の生なものを撮る。その<存在>を撮る、ということになると、即ち、「撮る」という行為は何かということになる。

撮るということで思い起こすのは、初源的な映画である、やはりリュミエール兄弟の「汽車の到着」だと思う。カメラをその場に置くと、目の前に繰り広げられている空間と時間を、すべて機械的に記録してしまう。それはある種の冷徹さをもって、記録される。見るという行為の極限がそこにはある。カメラの前では多くの隠しきれないことが映り込む。カメラは現実をありのままに映すことだけしかできないし、「汽車の到着」がダイナミズムを持ったのは、カメラがありのままの現実をありのままに映したからだった。

多くの監督(たとえば黒沢清監督ら)によって言われている、カメラについてのこの説……僕はそれを信じる。

撮影で必要なことは、カメラがすでに隠し切れない多くのもの(役者に内在するすべてのもの、役者自らも気が付いていないこと、そして監督や組全体の状態をも)を映してしまっている、ということを信じること。そしてカメラの前では隠し切れないものを覆い隠そうとすれば、それが虚飾であることも写されているというを知ることだ。

僕はそのように考えるから、カメラの前で起こることを極力コントロールしないようにしたい、と考える。なので、前の投稿のようなことを考えるわけである。


撮影について考えれば、同時にモンタージュについて考えざるを得ない。モンタージュは撮影とは全く別のもの。つまりコントロールされなければならないもので、コントロールそのものである。エイゼンシュタインによれば、モンタージュは<運動>と深く関わっていると言っていたと記憶している。モンタージュは、ショットをある意図をもって連続的に組み立てることにより、そこに内在する<運動>(またはある場合は<非-運動>)を描き出す。


意図されることと、意図されないこと、これを織り込んでいくのが映像作品だとすると、映画にはこのテーマと関わるより大きな問題が潜んでいる。それは映画が基本的にはナラティブであるということである。映画には脚本が存在し、優れた映画には多くの場合、優れた脚本がある。人は映画を見るとき(多くの場合)、それがナラティブであり、ストーリーであるから、惹き込まれる。

ドゥルーズは「シネマ」の中で、イメージを3つに分類し(感情、行動、知覚)そのどれもが空間‐身体運動と結びつき、「運動イメージ」を形作るとしている。つまりそれはナラティブと近似している。しかし、ドゥルーズがほめるのはそのような運動イメージの映画ではなく、運動とは別の次元に存在する「時間イメージ」を描き出している映画である。ドゥルーズはそのためには、<空間‐身体運動系を断絶しなければならない>と言って、いくつかの映画を挙げるが(たとえば、市民ケーン)、僕の理解では、ドゥルーズが言おうとしているのは、ナラティブという鎖をほどかない限り、真の映像が到来しないということだ。たとえばそれは「汽車の到着」のように、最もダイナミックな瞬間は、最も隠されていたものが暴露される瞬間は、最もカメラが見たすべてのものをありのままに観客に見せる瞬間は、最も役者が生身の人間として観客の目の前に現れるのは、ナラティブを切り離したときにこそやってくる。そう僕は解釈しているし、そう信じている。


僕が映画を作るときに考えることは、おおよそそのようなことだ。ストーリーテリングは最も重要なことの一つだが、同じくらい重要なことは映画をストーリーから解き放つ瞬間をつくることだと思う。もしくは映画をストーリーと密接にし、同時にストーリーから徐々に自立させていくことだ。役者を生身の人間として考えること、生身の人間として捉えようとつとめることは、そうすることがその瞬間のために必要だし、逆にそうしなければ、映画はナラティブ以上でも以下でもなくなり、一つのカットはストーリーから解き放たれることはないからである。

あるカットはナラティブに従属せざるを得ない。しかし、やがてナラティブから解き放たれ、(実は最初から)映されているすべての隠されたものを観客に暴露しはじめる。そのような映画を僕は作りたいと思う。


さらに、これと似た問題(だと僕は思っている)として、ナラティブとディスクールの問題があると考えている。哲学的なポーズでディスクールと書いたけれども、言説というもの。上のようなナラティブから自由な映像というと、それはドキュメンタリーのようなものなのかというと、YESといいつつ、しかし一方で僕にとってはNOだと言うと思う。僕は多くの映画監督とは異なる立場かもしれないが、映画は作り手にとっての言説に変わる瞬間があったほうが良いと考えるタイプの作り手である。つまり、それは意図された主題(時には意図すらされていなかったより重要な主題)が、明確に打ち出される瞬間である。それは脚本上で達成しておくべきものかというと、僕はもちろんそうではあるが、根本的には違うと思う。なぜなら、脚本上で主題の表現が達成されたとしても、映画は文字とは別の媒体であり、全く別の固有の芸術である。そして映画において主題の表現というのは、映画に固有の仕方で考えられなければならない。

僕が考えるのは、上記のナラティブに従属する映像と、ナラティブから自由な映像である。僕は、ナラティブの一部でしかなかった映像が、やがて自由になり、自立し、そのありのままの姿で観客に目撃されるとき、その瞬間にその映像は主題を高らかに告げていてほしい。つまり、奔放で野蛮な現実=ドキュメントなのではなく、そのありのままの空間と時間は、主題の到来を告げ知らせる。それは物語の中でのカタルシスでは決してない。観客に映画が直接語り掛ける瞬間である。僕はいつもその瞬間を目指して映画を作っていると思う。


次の問題は、映画はナラティブと手を組みながら、いかにして、ある時ナラティブから自由になるかということである。

そのような方法を作品を作る度に考えている。たとえば、荒唐無稽なシークエンスを利用することや、異化、などはその方法の一つであろう。前の作品『パーフェクト・レボリューション』でも、試してみたことだ。(僕は気に入ってるけど、色んな意見はあるらしい。)最初からナラティブらしくない映像で綴ることも、その手段の一つ。(だけど、僕の描きたい物語にとってはその選択はあまり有効とはいえないかもしれない…。)ポールシュレイダーは「聖なる映画」の中で、超越的なスタイルにおける<静>の瞬間を強調していた。それもあるだろう。既存の質に、全く別の質をモンタージュするという方法もある。

色々考える、常に考える。


しかし、やはりこれはすべて、撮影と編集の問題なのだ、と思う。


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